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レトリカ西東京支部彼岸便り

昔、劇場版『涼宮ハルヒの消失』について書いたこと。

涼宮ハルヒの消失』と正月

2018年の正月でアニメの話題といえば、元日から3日にかけて放送されていた新海誠作品のことかもしれませんし、5日に放送されていた宮崎駿の『魔女の宅急便』のことかもしれません。わたしはというと、とある新年の飲み会で意外な友人と『涼宮ハルヒの消失』について盛り上がり、気づいたら朝になっていました。

涼宮ハルヒの消失』とは谷川流の人気ライトノベルを原作とする2010年に公開されたアニメーション映画です。興行収入8億円と当時としては驚異的な動員を記録した作品で、今観返しても、ここまでミニマルで洗練された演出と映像、それによる情動の喚起力を持ったアニメ作品を他に知りません。大変な傑作です。

反響の一方、その頃わたしが親しんでいた界隈では「ファンムービーに過ぎない」といったタイプの冷笑的な声もあって、ほとんどその怒りだけで、かつて自分が本作について長い文章を書いたことを思い出しました。今回のエントリはその再掲です。

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要するに「本作で拘り抜かれている演出のミニマリズム写実主義は、ファンサービスとかで済まされるレベルのものじゃないでしょ!」ということを書いたのですが、今読み返すと書かれている内容の割には力が入りすぎていて(特に結部においては)滑っており評論未満のものです。けれども作品の要点はそれなりにまとまっており、鑑賞後のお供的なものとしては悪くないのではないかと思い、改稿なしでそのまま投稿することにします。

涼宮ハルヒの消失』はここで観られる!

シリーズものですが、初見でも前提知識なしで楽しめるはずです。むしろ知識なしで観た方が本作の驚きや細やかさを味わい尽くせるかもしれません。懐かしいと思った諸兄にも今一度見直していただきたく!

www.netflix.com

anime.dmkt-sp.jp

ここから8年前の文章↓



忘却の視線ーー劇場版『涼宮ハルヒの消失』について

アニメルカ製作委員会『アニメルカ vol.2』(2010/8/13刊行)収録



0.
 二〇一〇年二月六日、劇場版『涼宮ハルヒの消失』はゼロ年代(二〇〇〇年代)最後の年度末、最後の長編アニメ映画として、京都アニメーションの手によって放たれた。

 『消失』のエピソードは原作である谷川流の人気ライトノベル涼宮ハルヒ」シリーズの中でも特に人気が高いといわれているが、その映像化に至っては二時間四〇分超の文字通り、大作アニメ映画と呼ぶべきものになった。このことから一部で、原作の完全再現と喧伝され、制作側も「原作の『消失』を余さず、漏らさず映像化しました」*1と述べている。しかしながら、この劇場版は、良質なメタフィクションであった原作ライトノベル涼宮ハルヒの消失』の再現としては、実は完全に失敗している。そして、それゆえに、、、、、傑作であった。

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1.
 それでは、原作がどのようなメタフィクション構造を持っていたか確認しよう。早速だが、この説明をする上で最も的確だと思われるので、批評家・東浩紀による『消失』の解説をそのまま引用したい。

興味深いのは、シリーズ第四作の『涼宮ハルヒの消失』である。谷川はそこで、あるSF的な設定を用いて、主人公を、場所も時間も同じでありながら、周囲の登場人物がこのシリーズ特有の特殊な能力をすべて失った、一種の平行世界に送りこんでいる。本来は朝比奈みくるは未来人で、長門有希は宇宙人だが、その世界では彼女たちも「普通の高校生」にすぎない。そして主人公は、小説の最後で、その「普通の高校生」に囲まれた日常に残るか、それとも特殊な能力者に囲まれた本来の非日常に戻るかの選択を迫られる。(中略)最終的に主人公は「四月に涼宮ハルヒと出会ってからこっちの、クダランたわけた世界のほうを肯定」し(二一三頁)、非日常に戻ることになるのだが、これがそのまま、自然主義的な一般小説ではなくライトノベルを選び、いままさに『涼宮ハルヒ』を読んでいる読者の選択の隠喩になっている。物語内の虚構と物語外の現実を繋げるこのような所作を、筆者はのち「感情のメタ物語的な詐術」と呼ぶことになる。 *2

 ヒロイン・涼宮ハルヒと彼女が起こす非日常的な出来事を、今まで面倒事のように扱い受動的なスタンスを崩さなかった主人公キョンが、ついぞ能動的に動き、非日常な世界を肯定することによって、改変世界から元の世界へと帰還する。このことから『消失』は、キョンの決断と回帰の物語であるとともに、わたし達ライトノベル読者のメンタリティーを強く肯定する物語であった、と簡単に要約することができるだろう。

 ここで重要になるのが、語り手(キョン)の感情と読者の感情がすりかわり、読者が非日常な世界を肯定することが、そのままキョンの成長(決断)へとすりかわっている、という点だ。非現実的な物語と、物語外の現実とが繋がったような奇妙な錯覚。この物語外に働きかける感情操作のメカニズムを東は「感情のメタ物語的な詐術」と呼んでいる。

 このようなアクロバッティクな構造を抱える作品は、ライトノベルにおいて別段珍しいものではない。例えば、伏見つかさの『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』(二〇〇八年、メディアワークス)という人気作品がある。タイトルから予想される通り、いわゆる「妹萌え」に分類されるだろう本作は、そこから期待される「お約束」とは裏腹に、兄妹の関係が完全に冷え切っている状態から始まる。ヒロインである中学二年生の妹・桐乃は非の打ち所の無い美少女ゆえ、主人公である平凡な高校生の兄・京介を軽蔑している。このような状況を打開する鍵として伏見は、実は妹が「萌えアニメ妹萌えシチュエーションの美少女ゲーム(成人向けを含む)がどうしようも無く好きで堪らないが誰にもそのことを打ち明けられず困っていた」という相当に過剰な設定(よく考えれば犯罪行為である)を持ち込んだ。こうして兄は面倒と思いながらも、妹と妹の抱える問題に向き合っていくことになる。

 伏見がこのような設定を採用した戦略はもはや明らかだろう。つまり「特殊な能力者に囲まれた非日常」を願うキョンの欲望が、わたし達ライトノベルの読者の欲望だったように、「萌えアニメ妹萌えシチュエーションの美少女ゲームがどうしようも無く好きで堪らない」(控えめにいって「妹に萌えている」)のは妹・桐乃であるとともに、妹萌えライトノベルを読んでいるわたし達なのだ。「妹に萌える妹に兄が萌え、妹を肯定する」という入れ子構造によって、わたし達自身が抱える「妹萌え」のメンタリティーまでもが肯定されるという、メタ物語的な錯覚をここにも発見できる。

 メタ物語的詐術によって生まれた、キョンとわたし達の共犯関係、あるいは京介とわたし達の共犯関係、それらが物語を肯定し、そして、わたし達の生を肯定する。このような奇妙な錯覚が一つの手法として、求心力の高い物語を作ってきたのは間違いない。とは言っても、これらは結局のところ錯覚である。つまり、キョンは『消失』の物語において、普通には成長しているように見えるが、実はそうではない。わたし達の生が肯定されているわけでもない、まずこの点をわたしは強調しよう。

 ところで、今、解説した「感情のメタ物語的詐術」といった「捏造の技法」*3は、セカイ系美少女ゲームにおいて、積極的に使われてきた(補足すると、「涼宮ハルヒ」シリーズ、特に『消失』においてはセカイ系的特長が散見されるが、『俺の妹』はセカイ系でも、美少女ゲームでもない。しかしながら、構造の面では前述のようにかなり『消失』と似た特徴を持っており、また物語面では、美少女ゲームに似ている)。

 このようなセカイ系美少女ゲームの抱える「捏造の技法」(たとえばループやメタフィクション)は良くも悪くも、距離や関係性を捏造し、隠匿することによって、虚構と現実の間に位置するような、ある種のリアリズム(東がゲーム的リアリズムと呼んだもの)を浮かび上がらせる。

 たとえば宇野常寛のレイプファンタジー批判とはもちろん単なるポルノ・メディア批判ではなく、この捏造や隠匿の恣意性と、そしてそれによって再強化されるメンタリティーに対する批判であった。なるほどたしかに、『消失』も『俺の妹』も安易な自己肯定化ロジックになりかねない危うさを含んでいる。しかしながら劇場版『消失』はこの限りではないだろう。何故か。

 結論から言って、それは劇場版『消失』は、物語の核であった筈の「感情のメタ物語的詐術」が決定的な機能不全を起こしているからである。すなわち「キョンの決断と回帰の物語」と、わたし達鑑賞者の同期が避けられているということ。原作の再現としては失敗していると言ったのはこのためだ。

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2.
 それでは具体的に、劇場版『消失』において、キョンとわたし達鑑賞者の同期はいかにして避けられているのか検討してみよう。

 劇場版『消失』の制作会社である京都アニメーションの一つの特徴として、実際の風景をトレースした精巧な背景美術や、モブキャラクターの書き込みの緻密さなどが挙げられる。総監督の石原は「そういう分かりにくいところに全力投球しているのは、天然ボケの京アニらしいんじゃないですか?」*4などとおどけてみせる。しかし、実際には京アニの描く虚構の中の風景が、「聖地巡礼」という社会現象を起こし、現実の風景に影響を強い影響を与えていたりするのだから、そう簡単ではあるまい。

 これは劇場版『消失』に登場するモブキャラの過剰な書き込みに関しても、例外ではなく、スタッフの遊びのレベルを完全に超えている。例えば、劇場版『消失』では原作では名前の与えられなかった、キョンのクラスメイトら全員に名前と詳細な設定が与えられている。そして彼らはキョンの背後で、かなり細かい演技までしている。このことは『消失』の前章にあたるTVアニメ版『涼宮ハルヒの憂鬱』(二〇〇六年、同じく京都アニメーション)を見ても指摘できるのだが、劇場版『消失』ではより徹底しているといっていいだろう。一例として、本作ではガヤ(環境音としての人々のざわめき)にまで台本が用意されており、その全てがしっかり意味のある会話になっていることが挙げられる。(ガヤは環境音という性質から、意味のない適当な台詞が吹き込まれるのが通例だそうだ)。

 このような驚くべき徹底ぶりでクラスメイトや、通り過ぎる人たちが描写され、そして彼らにも、それぞれの物語があることが暗示される。もはやその時、モブキャラクター達は単なる遊びでも、背景装置でもなく、キョンを見つめる他者の目線として機能している。特にその性質は物語前半、世界改変直後に極まる。

 消滅したはずの朝倉と再会し、錯乱気味のキョンを見つめる群衆の視線の存在感、またそれよって引き出されるキョンの痛ましさ。そして、トドメとばかりに直後のシーンで挿入される朝比奈みくるから拒絶は、キョンとわたし達鑑賞者の心に、より大きな爪あとを残すことになるだろう。加えて、この一連の出来事に対するキョンの痛いリアクションをサディスティック(あるいはマゾヒスティック)と思えるほど写実的に淡々と描いていくこと。

 そう、ここでわたし達は、キャラクターに対する欲望がはじかれ、「見る」対象であったキャラクターから奇異の目で、見られることになる。美術・アニメ評論家の黒瀬陽平氏は京都アニメーションの代表的な三作品を挙げて、「私たちはキャラクターに見られることによってアクチュアルになる空間を見ているのだ」*5といったが、まさに一連の描写にはキャラクターに見られることによって宿った、原作にはないアクチュアリティーがある――ただし全く違う意味において。

 キョンの動揺と奇行の写実的、つまり客観的描写それ自体が、既に原作にはないインパクトがある。そして、さらにそのような振る舞いが多数の視線の前に晒され、追いやられ孤独になっていくキョンの姿を、あくまで淡々と描いていく、この物語前半の演出のスタンスは、かなりエグい。このように写実的描写と他者の目線が、「痛み」をともない、キョンとわたし達鑑賞者の同一化、幸福な共犯関係を阻害している。果たして原作にこのような「痛み」はあっただろうか?

 わたしは原作と劇場版の描写の差異を考えるとき、先ほど引用した東浩紀が、かつて「『涼宮ハルヒの憂鬱』には描写がいっさいなくなっている」*6と言ったことを思い出さずにはいられない。まさに彼が言っていたことはこのような意味ではなかったか。

 小説『涼宮ハルヒの憂鬱』にいっさい描写がないというのは、東も認めるように、言葉そのままの意味では間違いである。しかし彼が撤回の言葉とともに、「ただ『ハルヒ』では、あるいは最近のライトノベルの一部では、いわゆる地の文が自意識過剰な現代オタクの典型の自己ツッコミに覆われて」いると述べるように、「ハルヒ」に代表されるライトノベル特有の一人称饒舌体は必ずしも正しい描写をしない。あらかじめ視点キャラクターの認識や自意識のフィルターを通って、出力される描写だからだ。いわば半透明な描写である。そして、キョンの痛さや孤独というものは、ライトノベル的一人称饒舌体の自意識によって、ある程度隠匿され守られていたのだということを、わたし達は京都アニメーションの誇る完璧な描写力によって確認させられる。

 ところで、このライトノベル的一人称饒舌体の描写と、いわゆる「京アニクオリティー」的な描写の違いは、普通に考えれば、小説とアニメというメディアの違いに起因すると思われる。しかしそれと同等か、それ以上に両者が抱えるメンタリティーの違いが大きいようにわたしは感じる。

 前者は、ときに恣意的な描写が可能となっており(この場合はキョンの痛さを見る必要がないということ)、セカイ系美少女ゲームとの親和性も高い。このことから前述した「感情のメタ物語的詐術」と同じく「隠匿の技法」の一つとして、すなわちセカイ系的メンタリティーの反映と考えられる。対して、京都アニメーションが設計する描写は、端的に映画的な透明さといっていいだろう。たとえばキョンの動揺が頂点に達し、歩けなくなるシーンはヒッチコックの『めまい』を意識した演出がなされているし、長門の頬の赤らめや、ハルヒの寝癖のさりげなさから確認できるが、本作においてアニメ的デフォルメは、ギリギリまで抑えられている。このように描写するメンタリティーの水準において、言わば、半透明なものと透明なものの対立が起こっている。

 以上のように、キョンとわたし達鑑賞者の同一化、幸福な共犯関係は、キョンの振る舞いの描写と客観化から立ち上がる「痛み」と、描写のレベルで生み出される齟齬によって避けられている、とひとまず言える。この時点でメタ物語的詐術は既に破綻しているといっていいが、より直接的にキョンとわたし達の解離が徹底されるような演出の存在を、ライターの前島賢氏が指摘している。少し長くなるが、かなりクリティカルなので、引用させてもらう。以下は前島によるツイッター上での劇場版『消失』の感想である。

この映画はある、メタ的な演出で明らかに原作とは異なった――それこそ真逆とも言えるメッセージを描き出している。(中略)キョンは自分自身に向かって「おまえは本当はどっちの世界が好きなんだ?」と問いかける。映画では、この時、キョンの顔はスクリーンに正面に映し出され、明らかに劇場に向けて、おまえは~と語りかけてくる。明らかに、おまえとは、キョンであると同時に「ぼくたち」で、キョンの迷い込んだ「普通の世界」こそが、この世界なのだと思わせる演出になっている。もちろん、キョンというのは、シニカルで饒舌でその実超常現象を望んで止まないラノベ読者の代表みたいなキャラクターだから、この演出自体はいい。問題なのはラストシーンだ。もとの世界に戻れたキョンだけど、世界を本当の意味でもとに戻すためにはもう一度、「普通の世界」に戻らないとならない。が、キョンはそれを後回しにし、『消失』ではそれは描かれない。キョンは「もう少し待っていろよ、世界」と言い、その瞬間、画面はブラックアウト。最後の「もう少し待っていろよ、世界」も明らかに、スクリーンの外のぼくたちに向けて語られている。観客とキョンを同一化させて「やはりあちらの世界に戻りたい」と叫ばせ、にもかかわらずキョンだけを「あちらの世界」に戻し、観客だけが、この世界に置いて行かれる、というのが映画『消失』だ。だから、結局、映画では、キョンは、ハルヒとのクリスマスに辿り着けたのだろうけれど、それは画面には描かれない。つまり、ぼくたちは辿り着けていない。*7

 コンテクストを踏まえていえば、前島の感想はかなり感傷的な嫌いがある。しかしながら、前島はまさにこの作品の争点である「感情のメタ物語的詐術」の問題について重要な指摘をしている。原作では「非日常を選択するキョン」が、「ライトノベルを読むわたし達」と同期し、幸福なメタ物語的詐術を発生させた。しかし劇場版においては「非日常に回帰したキョン」に「日常の世界で映画を見ているわたし達」が呼びかけられるという、メタ物語的な詐術によって、逆にわたし達鑑賞者とキョンとの解離は決定的なものとなっている、ということだ。わたし達は奇妙にキョンから位相をずらされ、最終的に「キョンの決断と回帰の物語」から追い出されることになった。

 こうして劇場版『消失』は原作の再現としては失敗している。しかし、だからこそシンプルな自己肯定型メタフィクションであった原作に対して、劇場版は、ある種の自己批評性を獲得しているのではないだろうか。それではその自己批評性とはどのようなものであったか。

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3.
 ところで、『月間二ュータイプ』二〇一〇年三月号に掲載された絵コンテスタッフ座談会の大見出しは「劇場版『涼宮ハルヒの消失』は“ラブストーリー”であり、“キョンの決心と回帰の物語”であり、“選ばれなかった者たちの物語”である。」と題されていた。そして特に重要なのは、「選ばれなかった者たちの物語」であると思われる。何故なら、劇場版『消失』において「選ばれなかった者たちの物語」というのは製作スタッフ達の明らかな意図によって、新規に強調されている要素だからだ。

 ではどのように「選ばれなかった者たちの物語」が強調されているのか見ていこう。その前に説明すると、ここで言われている「ラブストーリー」とは長門の悲恋のことであり、それもまた「選ばれなかった者たちの物語」の一つとして数えられる。長門については物語の中心ゆえ、ここで詳細な解説をする必要はないと思われるが、エンディングテーマ曲である『優しい忘却』には触れておこう。『優しい忘却』の歌詞は、長門が選ばれなかった世界を想って、「消える世界を忘れないで」と語りかけるような内容となっている。まさに「選ばれなかった者たちの物語」を表したような歌詞である。しかもこの歌詞原案を担当したのが、原作者の谷川であるということは特筆すべき点だ。

 さて「選ばれなかった者たちの物語」という面において、より解説が必要なのは、ハルヒキョンの仲間である超能力者・古泉一樹の存在についてであろう。改変後の世界では、彼もまた能力を失い「普通の高校生」に過ぎない。そんな古泉が、踏み切りの前でキョンにこのような台詞を吐露するシーンがある。

「何故なら僕は……そうですね。涼宮さんがすきなんですよ」
「……正気か」
冗談だろう?
「魅力的な人だと思いますが」
どこかで聞いたようなセリフだ。古泉は真面目な口調で、
「でもね、涼宮さんは僕の属性にしか興味がないのです。転校生だという、ただそれだけの理由で喋るようになったのですよ。なんせ普通の転校生なもので、最近飽きられつつあるようですが。SOS団でしたか、そこであなたにはどんな属性が有ったんですか? ないのだとしたら、それは涼宮さんが本当にあなたを気に入ったということですよ。そこでの涼宮さんが僕の知る涼宮さんが僕の知る涼宮さんと同じ人格だったとしての仮定ですけどね」
*8

 いつもの調子とは違う古泉の台詞に、わたし達は違和感を覚える。ただシリーズ全般に渡って、古泉はキョンに対し、「ハルヒにとってキョンが特別な存在である」ということを暗示させる台詞を幾度も放っており、一見するとこの台詞もその一つとして見過ごされかねない。

 ところが劇場版では、最後に「ある言葉」が付け加えられ、古泉の台詞は決定的なものになっている。

 「羨ましいですね」

 端的に、この台詞に劇場版『消失』における「選ばれなかった者たちの物語」は集約されているといっていい。古泉はハルヒに「属性」によってのみ興味を抱かれ、そして捨てさられることを予感し、真にハルヒに選ばれたキョンを見て、この言葉を放った。

 演出からみても、この台詞の特権性は明らかである。原作にはなかったこの台詞は、電車の轟音にほとんどかき消されていて、注意しないと聞き取れないようになっている。また電車が通り過ぎていくのを見つめる古泉を強調するように長い間が置かれ、このシーンを印象付けている。無論、この台詞の聞き取り辛さや、さりげない配置は、マニアを意識したサービス的な演出によるものなどではない。その証左に、実は古泉の台詞とこのシーンの印象はこの後、二度にわたってリフレインされることになる。

 一つ目はキョン改変世界から改変前の世界に戻るシーン。キョンが緊急脱出プログラムを起動させた瞬間、世界が暗転し、今までキョンが聞いてきた様々な人々の声がフラッシュバックする。そして踏み切りのイメージとともに、最後に聞こえてくるのが、古泉の「うらやましいですね」という言葉だった。

 二つ目はすべてが終わって、元の世界へ帰還を果たしたキョンが、病室で目覚めるシーン。元に戻った古泉が、ハルヒに三日間看病されていたキョンに対して「羨ましく思っているだけです」と微笑みながら告げる。いつもの調子に戻った古泉にわたし達は安堵を覚えるとともに、逆説的にこの最後の台詞こそが、もう一つの世界の古泉の哀切さを最も引き出しているように響く。「キョンの決心と回帰の物語」が勝ち得た元の世界で、閉じられた筈の「選ばれなかった者たちの物語」の一抹の悲しみが再生されてしまうこの感覚。

 前島の言うように、わたし達は「キョンの決心と回帰の物語」から取り残されている。しかしだからこそ、まるで『ひぐらしのなく頃に』のシナリオロックが解除されたように、わたし達は他の可能性の束、つまり「選ばれなかった者たちの物語」について想像することができるのではないかだろうか。

 わたしが自己批評性といったのは、劇場版『消失』が「選ばれなかった者たちの物語」について強調することによって、「~であったかもしれない」という可能世界的想像力から獲得する他者への想像力だ。

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 最後に可能世界的想像力の可能性の話をしよう。閉じられた可能性、あるいは終わってしまったセカイの中に「選ばれなかった者たちの物語」はある。しかし、このセカイ系的なモチーフを単なる感傷だと一蹴はできないだろう。

 何故なら、『ゼロ年代の想像力』(二〇〇八年、早川書房)でセカイ系批判を行った宇野常寛氏が述べたように、セカイ系の「~しない」という態度(例えば碇シンジ)は「~する/~した」という決断(例えば夜神月)によって埋葬される。しかしここで立ち上がる「~であったかもしれない」という想像力は、まさに「キョンの決心と回帰の物語」が「選ばれなかった者たちの物語」を生んだように「~する/~した」という決断によってこそ粛々と生成されていくものだからだ。劇場版『涼宮ハルヒの消失』が獲得した、「キョンの決心と回帰の物語」の裏で消えゆく「選ばれなかった者たちの物語」に対する視線。その瞳の中に、わたしはポスト・セカイ系の一つの可能性が映し出されるのを見た。

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*1:石原立也×武本康弘×高雄統子「演出家座談会」より武本の発言、ニュータイプ編集部編『公式ガイドブック 涼宮ハルヒの消失』、角川書店、二〇一〇年、一〇一頁。

*2:東浩紀ゲーム的リアリズムの誕生』、講談社現代新書、二〇〇七年、四七頁。

*3:直接関係しないが、「捏造の技法」という言葉は文芸批評家・坂上秋成氏の「捏造の技法――あるいは記号としての他者との関係」という論考を意識している。坂上の論考は、簡単に要約すると「近景でも遠景でもなく中景で立ち上がる他者性をわたし達はどう記号化し、処理しているのか」という議論であった。この論考の焦点は他者性である。しかし坂上の問題意識の本質や、記号化のプロセス(=「捏造の技法」)は、わたしがここで問題にしている美少女ゲームセカイ系が持つ「捏造の技法」と重なる部分が多いと思われる。現に彼がこの論考で最初に分析する作品は『CROSS†CHANNEL』という美少女ゲームであった。 坂上秋成「捏造の技法――あるいは記号としての他者との関係」、『早稲田文学増刊U30』、早稲田文学会、二〇一〇年。

*4:谷川流×石原立也×志茂文彦「原作・総監督・脚本座談会」より石原の発言、ニュータイプ編集部編『公式ガイドブック 涼宮ハルヒの消失』、角川書店、二〇一〇年、九〇頁。

*5:黒瀬陽平「キャラクターが、見ている。」、東浩紀北田暁大編『思想地図 vol.1』、NHKブックス、二〇〇八年、四六〇頁。

*6:早稲田文学十時間シンポジウム ポッド2日本小説の現在」より東浩紀氏の発言、『早稲田文学②』、早稲田文学会、二〇〇八年、四四三項。

*7:前島賢氏(@MAEJIMAS)の二〇一〇年七月十八日、午後五時二五分から五〇分までの九ツイートからの引用(二〇一〇年七月二六日現在)、http://twitter.com/maezimas

*8:谷川流涼宮ハルヒの消失』、角川スニーカー文庫、二〇〇四年、一三三頁。