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レトリカ西東京支部彼岸便り

『からかい上手の高木さん』とキャラクターの条件

昨日、あまりにも寝付けなかったので、山本崇一朗からかい上手の高木さん』(2013〜)を一気読みした。あずまきよひこモリタイシなどを先行作家とするゲッサンの本懐的な作品であり、「高木さん、かわいぃ!」で安心してサクッと読める。とはいっても少し踏み込んで読めば、キャラクターなるものの生存条件をかなりミニマルに示しているように感じられる。元来、サンデー系の諸作品は「なぜキャラクターはそこにいるのか?」といった存在論的な問いを投げかけているところがあり(高橋留美子作品に遡ってもいいだろう)、山本崇一朗はその正統的な末裔という感触がある。

「高木さんの主人公へのからかい」とは主人公への好意や性欲に他ならないのだが、それが主人公に伝わることはないという了解がある。より正確には主人公は最初から答えに到達する要素を全て持っているのにも関わらず思考中断する(ボンクラであり続ける)ことによって、高木さんに殉じている。

高木さんは読者に人間であることを示し続け、他方で主人公に決してはキャラクターであるという態度を崩さない。自分が人間だと明らかになった途端(主人公と結ばれたならば)、この世界が終わるという真実を高木さんは知っているようだし、そうであるからこそ、高木さんは世界を欺きつつ、自分の魅力を読者に伝えようとする。まさにここには『涼宮ハルヒの憂鬱』と同型のキャラクターの条件があり、「戦う女の子と見守る男の子」の関係性/類型性の秘密がミニマルに示されている。

この作品に対して「こんな青春送りたかった」という感想が散見されるのだが、それは本作のキャラクターの非人間性と作品世界の非時間性の異質さをすっかり忘却している。他方で、この作品が隠している異質さは、現在放送中のアニメ版を観ることによって、思い出されるかもしれない。

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アニメ版において、非人間性/非時間性の異質さは、ともに「なぜ高木さんと主人公のコミュ二ケーションは中断されないのか」という違和感の形をとって晒されることになる。それはつまり他者の不在を意味している。

もちろん本作には主人公と高木さん以外の登場人物がおり、まさに教師は頻繁に高木さんと主人公のコミュ二ケーションを切断する存在として登場する。けれども、それは常に二人のコミュ二ケーションに従属的であって、あくまでも幕間の合図としてしか機能していない(逆にアニメーションにおいて他者が全面展開することとは、どのような作用をもたらすのかという話は、前回のエントリで扱った)。二人のコミュ二ケーションを素朴にアニメーションの時間感覚に乗せてしまうと、時間軸の歪みが晒されてしまうということである。

ここまでの読みがどれほど正しいかは疑わしいにせよ、少なくても作者は時間感覚の操作に関しては自覚的であるように思われる。それはコマ割りの間の作り方(基本的に高木さんの表情を通して行われる)からしても、ストーリー上の時系列の組み立てからも明らかである。

そうして形作られる無時間的な時間、つまり無自覚が許される神話的時間がある。その無自覚さに対して高木さんがあまりにも自覚的に振る舞うというアンチノミーこそが、高木さんというキャラの駆動条件あり、本作の魅力の秘密なのではあるまいか。